現在の社会は、視覚に頼ることを中心とした視覚中心主義(ocularcentrism)だと言われている。なぜ、ocularcentrismは発展したか。
様々な文明の利器(例:文字の発明、印刷など情報手段の発明から始まり、人工照明、写真などの発明がさらに強化)の開発で急激に発展している。さらに、インターネットという仮想空間、それを活用したパソコン、さらにスマホの普及でそれが加速。今では SNS、オンラインエンターテインメント、オンラインショッピング、VR擬似体験。また、今年のコロナウイルスで人々が外出や他人との接触を控えるようになった結果、その変重が極端になっている。(例)オンラインミーティング、バーチャル旅行、クラウドオフィスとかも.
上記の技術進歩とocularcentrismの融合で、時間と空間の制限から部分的に解放され、部屋の中から出ずにほぼなんでもできるような便利の世の中になっている一方で、弊害も懸念されている。ocularcentrismに対する批判の例。視覚に頼りすぎて、聴覚や感触、嗅覚などが鈍感に。五感を使わないとボケやすい? 視覚に頼り過ぎて、様々な感覚を動員する必要がある想像力も弱くなってしまうと、極端な例としてはDeep fakeなどの問題も出てくる。”百聞は一見にしかず”は間違っている可能性もある世の中になっている。
この作品は、その視覚中心主義に疑問を投げかけるのが狙い。見る者の視覚や色をあえて制限し、素材に触れ、耳をすまし、視覚を疑うことを促すことで、五感をフルに刺激し、想像力に働きかける。
設置場所は、林に隣接する民家の庭。鳥のさえずりを聴いたり、草花の匂いを嗅いだり、ほほを撫でる風を感じられるオープンスペースに設けることで、五感を刺激する。
ドアの素材については、木の枝を利用する。すべて白い布で細かい部分は全部隠す。それを手で触って記憶と想像力を使うことで、その物体が何なのかを考えるようにうながす。
地面を白い布で覆い隠しているので、足の裏の感触で地面の素材を想像しなければいけない。
ひし形の空間の中に椅子のようなオブジェを設置している。座れるかどうか、見た目では判断できないので、触って確認する必要がある。
色がついたものがモノクロームに見える「低圧ナトリウム灯」を設置した空間。